利休と秀吉

講演会終了後、演者の先生方とスタッフたちで、打ち上げをする。店の選定は嫁に一任しているのだが、今回行った店が、ちょっとおもしろかった。
梅田駅のすぐ近くの和食居酒屋。玄関口で靴をぬいで、茶室のような狭い空間に案内された。「茶室」を模した座敷なので、狭い入り口を入るのに、身をかがめないといけない。というか、相撲取りみたいにガタイのいい人は、この入り口をくぐれないだろう。この不自由な趣向を、僕は新鮮に感じました。大阪を中心に展開するチェーン店の居酒屋だけど、こういうスタイルはけっこう受けるんじゃないかな。
そんな座敷だったこともあってか、同行したK先生が、こんなトリビアを教えてくれた。「茶の湯を大成した千利休は、バリバリのキリスト教徒だったことを、先生ご存知ですか」
いや、全然知らないです。どういうことですか。
「利休が生きた戦国時代は、まさにキリスト教が伝来し、爆発的に広まった時代です。茶道の精神とキリスト教思想には、偶然とは思えない共通点があります。
当時の日本は厳格な身分社会です。「百姓の子供は百姓になる」「商人の子供は商人を継ぐ」それが当たり前のところ、キリスト教も茶道も「人間の平等」や「心の清貧」を尊びました。
キリスト教において、「神の前では皆平等」です。茶道で「茶室に入れば、大名も百姓も皆平等」です。キリスト教は「富に執着しない心の美しさ(清貧)」を説きますが、茶道は無駄を削ぎ落した質素なもののなかに美を見出します。茶道の精神は、キリスト教とそっくりです。
さらに、茶室の構造を見てください。今、狭い躙り口(にじりぐち)を這うようにして潜り抜けましたが、この躙り口を通るには、武士も腰に差した刀をいったん外さないといけません。これは聖書の「狭き門から入れ」「天国に入るには、子供のようにへりくだらなければならない」という教えを体現しています。
もっと言えば、ここにはありませんが、本来の茶室には手を清める蹲踞(つくばい)と灯籠があります。つくばいはキリスト教の洗礼や聖水を表し、灯籠は「神の言葉は我が道」という信仰の象徴です。
さらに、茶道の最大の見せ場は、濃茶の回し飲みです。出席者が濃茶を順番に回し飲みするのは、キリストの血に見立てたワインを入れた聖杯を信徒が順番に回し飲みするのと同じです。
その所作もよく似ていて、茶道では、濃茶を次の人に渡す際、自分が口をつけた部分を茶巾でふき取りますが、キリスト教では、聖杯を次の信徒に渡す際、白布でふき取ります。
当時日本に滞在していた宣教師も、茶の湯の様子を見て、「カトリックのミサと同じやん!」と驚いた記述が残っている。
事実として、利休の周りはキリシタンだらけだった。利休の7人の弟子(「利休七哲」)には、高山右近、蒲生氏郷、細川忠興など、有力なキリシタン大名がいて、秀吉がバテレン追放令を出した後も、彼らは茶室という隠れ家で、茶の湯をカモフラージュにした「ミサ」を守り続けた。
つまり、茶道というのは、一見、純和風の日本的な営みに見えるけれど、実際のところ、キリスト教の「愛、平等、もてなし」の精神を体現している。日本古来の禅宗の精神をベースにしながらも、キリスト教のエッセンスを柔軟に取り入れて、昇華させる形で完成させた。そういう和洋折衷の究極の形が、茶道なんです」

茶室を模した居酒屋で聞くには、最高におもしろい雑学で、僕らはK先生の話に感心した。お返しとばかりに、僕もこんな雑学を披露した。
「秀吉の指は6本あった、というのをご存知ですか。
知らないですよね。どんな歴史小説でもNHKの大河ドラマでも、なぜかこの点を触れないのですが、これは本当ですよ。
秀吉の右手の親指は2本あった。つまり、彼の右手は6本指だった。「彼は宇宙人だった」とか、そんな陰謀論ではありません。単純に多指症です。奇形というか、現代でもこういう子供が生まれます。現代だと手術で1本切除するのが普通ですが、彼はそのまま成人した。
前田利家の回想録(『国祖遺言』)のなかに、「秀吉公の右手には親指が2本あって、信長公から『六つめ』と呼ばれていた」という記述がある。前田利家は、豊臣政権を支える五大老の一人です。身内同然の利家が、わざわざ秀吉を悪く言う理由がない。
さらに、宣教師のルイス・フロイスの書簡のなかに「秀吉は小柄で、ブサイクな容姿で、右手には6本の指があった」とある。客観的な視点を持つ外国人の記録にも書き残されている。
秀吉の主治医(曲直瀬正琳)の記録にも同様の記述がある。「俺、右手の親指が2本あるねんけど、どうにかならんかな。見苦しいからいっそ切り落としたい」という秀吉が、刀で無理やり切ろうとしたので、周囲があわてて制止した、という生々しいエピソードが残っている。

信長から「六つめ」とバカにされていたし、自分で切り落とそうとするぐらいコンプレックスを感じていたようだけれども、同時に、彼はその指に強烈なプライドを持っていたと思います。これはあくまで僕の想像ですけど。
だって、天下人ですよ。尾張中村の水呑み百姓から、天下人へと駆け上がった。身分の固定された中世の時代において、こんなとんでもない出世は空前絶後です。古今東西、世界の歴史を見回してもあり得ない。生活保護受給者がIT長者になるよりも、もっと激烈な成り上がりです。こういう人が、自らの身体的特徴の「6本指」をどう捉えるか?コンプレックス?とんでもない。真逆でしょう。「俺はこの手で、この6本指で天下をたぐりよせた」ぐらいに思うんじゃないかな?コンプレックスどころか、彼が天下人になったことを理由づけるほどの強固なプライドになったのではないか、と想像します」

「それは知りませんでした。おもしろいですね」とK先生。そして、さらなる雑学をかましてくれた。
「秀吉は利休に対して切腹を命じました。その理由は、よく分かっていません。一応の表向きの理由としては、利休が大徳寺の門の上に自分の木像を置いた。秀吉がその門を通ることは、利休の足元をくぐることも同然で、「不敬である」として秀吉は怒った。
でも、それが真相なのか?違うと思います。実際のところは、利休がキリシタンによる奴隷貿易の黒幕だったことです。
1587年、九州平定に向かった秀吉は、ポルトガル商人やイエズス会が日本人を奴隷として海外に売りさばいている現実を知り、激怒した。これが「バテレン追放令」につながった。秀吉にとって、キリスト教勢力は日本を侵略、解体しかねない危険思想だった。
さきほど言ったように、利休は、単なる一介の茶人ではなかった。多くのキリシタン大名から尊敬され、しかも堺の商人組織のトップだった。利休が価値を認めた茶器には一国一城にも匹敵する値段がついた。彼は茶器の流通と価格決定権を握る巨大マネーの支配者でもあった。
歴戦の戦国武将たちも、利休のカリスマ性の前には素直に膝を屈し、彼の教えを乞うた。特に高山右近はバテレン追放令に背いて信仰を貫き、領地を没収される処罰さえ受けた。
秀吉はこれが許せなかった。ある茶器を見て「これはすばらしい」と自分が言ったとて、利休が否定すれば価値が下がる。天下人のプライドと権威が、これほど分かりやすく愚弄されては、秀吉としても黙っていられない。

江戸時代に書かれた『茶道四祖伝』にこんな記述がある。
秀吉「おい、利休。お前の娘のお吟。えらい美人らしいやんか。今日の夜、城の裏門、開けとくから、娘をよこせ。側室として囲ってやる」
利休「いえ、それは、、、」
大事な娘である。秀吉の命令とはいえ、「はい、どうぞ」と言えるわけがない。
「天下人に抱いてもらえるんやぞ。感謝こそすれ、嫌がるとは、どういうことや」
沈黙する利休に、秀吉は言った。
「1日だけ待ったる。よく考えろよ。お吟を差し出せば、褒美ははずんでやる。でも出さへんかった場合、どうなるか、分かるよな」
利休は当然、秀吉の人間性を見抜いている。田舎出身の呑百姓で、教養のかけらもない。派手で華美なものを好み、日本中の富が流れ込む大坂で権勢をほしいままにする天下人。要するに、俗物の極みである。
利休は秀吉の対極にいた。大坂堺の豪商の家に生まれ、幼い頃から孔子、孟子などの漢籍の素養を修め、イエズス会宣教師から最先端の科学的知識まで教わっていた。つまり、当時入手可能なあらゆる学問を修めた「知の巨人」だった。人間の内面理解も深く、豪商の家に生まれたからこそ「金にできること、できないこと」の違いをよく理解していたし、秀吉の好む「豪華絢爛」が結局のところ、人に空しさをもたらすことも理解していた。
秀吉は、そんな利休が恐ろしかった。利休の前に立つと、権威を笠に着て大きく振る舞う自分が、急に小さくなったような気がする。恐ろしい。だから、試す。「娘を差し出せ」と。動揺を誘う。「俺の言うことを聞かんと、殺すぞ」と。言われた利休の表情が、一瞬たじろぐのを見て、秀吉は笑う。「侘びとか寂びとか、人間のことを分かった顔をしとるくせに、俺がちょっと圧力かけたら、ビビっとるわい」しかしこの心理さえも見透かされているようで、秀吉はもう、居ても立ってもいられない。
帰宅した利休。お吟に、秀吉の意向を伝えたところ、娘は敢然と答えた。「お断りします。権力に抱かれることはありません。力づくで、ということなら、舌を噛んで死にます」

では、僕の番ですね。
さきほどK先生が言われたように、秀吉は無類の女好きで、側室が何十人もいました。しかし奇妙なことに、子供が全然生まれませんでした。身分の低い娘から大名の娘まで、数えきれないほどの女性を召し抱えて、関係を持ちながら、50代になるまで誰一人として妊娠しなかったというのは、確率的に秀吉の精力(無精子症など)に原因があったのではないかと疑うのが自然です。ようやく53歳で鶴松、57歳で秀頼が生まれましたが、そういう経緯があるので、当時から「秀吉の実子ではないのではないか」という噂がありました。「淀殿が石田三成とやったんじゃないか」「いや、大野治長かも」などと、町の人々は噂しました。
そういう噂は、秀吉の耳にもうっすらと届いてくる。「種無しと笑われているのではないか」そんな狂気寸前のコンプレックスが表面化したのが、1589年の聚楽第落書き事件です。
秀吉の邸宅の聚楽第の壁に、こんな落書きが見つかった。
「大政所(秀吉の母)が不倫をして生まれたのが秀吉だ。そして今、淀殿が不倫をして鶴松を生んだ。血は争えないものだな」
「お前(秀吉)には子供を作る能力がない」と、秀吉が最も触れられたくないコンプレックスを容赦なく突いた落書きだった。
これを見た秀吉は烈火のごとく怒り狂った。
まず、聚楽第の警備兵ら17人を鼻削ぎ、耳削ぎの刑にした上で、京都の河原で処刑した。犯人が見つからないので、聚楽第周辺の町組に連帯責任を負わせ、町人60人~130人を逮捕、処刑し、さらに、容疑者とされた人物を追い詰め、彼が自殺した後、その親族、親交のあった僧侶まで処刑した。
たった数行の落書きに対して、これほどまでの大量虐殺を行った事件は、日本の歴史上、他に例がない。
なぜ、ここまで激怒したのか。
ひとつには、大義のためです。成り上がりの秀吉にとって、豊臣政権が長く続くには、「自分の血を引く後継者」の存在が絶対条件だった。落書きによって「あの子供は秀吉の子ではない」という噂が広まることは、秀吉を継ぐ者の正統性の喪失を意味していた。
もうひとつは、こちらがより本質ですが、図星を突かれた怒りです。
「全く身に覚えのない落書き」なら、秀吉もこれほど怒ることはなかった。「自分でもうすうす不安に思っていること」をズバッと突かれたゆえに、許せなかった。「指が6本あり、ブサイクで、どれほどの女を抱いても子供ができなかったのに、なぜ今になって急に子供ができたのか」その不安を白日の下のさらされたことで、怒りが燃え上がった。

秀吉が不妊であったこと。ここに僕は、何とも言えない人生の皮肉を感じます。日本の全てを支配する武力と財力を手に入れながら、自分の血を分けた子供を作るという、生物としての当たり前の能力が手に入らなかった
天下人が抱えていた、絶対的な劣等感。彼はそれを必死に隠そうとして、落書き事件の悲劇を生み、ひいては後継者の秀頼を溺愛するあまり、親族殺害(豊臣秀次の切腹事件)へとつながり、豊臣家自体の崩壊につながっていくことになった。

利休に相談すればよかったんだよ。神父に告白室で悩みを打ち明けるように、茶室で利休に胸の内を明かせばよかった。利休なら、その秘密をどこにも漏らすことなく、ただ秀吉に共感して、不安を軽減してくれただろうに。
しかし秀吉にそんな勇気はなかった。武士のトップでありながら、あれほど臆病な武士は他にいないだろうと思う。

【告知】
2026年6月20日、21日、デル・ビッグツリーが日本に来ます。彼の作った映画やドキュメンタリーについては、過去記事で書いたことがあります。

デル・ビッグツリーが来日する。これってすごいことです。
彼はケネディ厚生長官の右腕です。ワクチンの何たるかについて、彼ほど実証的な情報発信をしてきた人はいない。
その彼が日本に来て、彼と直接議論できる。こんな機会は、皆さんの一生の中で、恐らくもうありません。
コロナもひと段落し、多大な被害をもたらしたコロナワクチンについて、皆さんもうお忘れかもしれないけれど、ワクチンというのは「手段」なんです。
子供の予防接種、HPVワクチンはもちろん、今後仕掛けられるワクチンについて、彼ほどその裏側に精通する人物はいない。
僕も末席を汚す形で参加させてもらうことになりました。東京近辺にお住まいの方は、ぜひともご参加ください。

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>中村篤史について

中村篤史について

たいていの病気は、「不足」か「過剰」によって起こります。 前者は栄養、運動、日光、愛情などの不足であり、後者は重金属、食品添加物、農薬、精製糖質、精白穀物などの過剰であることが多いです。 病気の症状に対して、薬を使えば一時的に改善するかもしれませんが、それは本当の意味での治癒ではありません。薬を飲み続けているうちにまた別の症状に悩まされることもあります。 頭痛に鎮痛薬、不眠に睡眠薬、統合失調症に抗精神病薬…どの薬もその場しのぎに過ぎません。 投薬一辺倒の医学に失望しているときに、栄養療法に出会いました。 根本的な治療を求める人の助けになれれば、と思います。 勤務医を経て2018年4月に神戸市中央区にて、内科・心療内科・精神科・オーソモレキュラー療法を行う「ナカムラクリニック」を開業。

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