あまり知られていないであろう、歴史の1ページを紹介する。

永井柳太郎は金沢の貧しい家に生まれた。石川県尋常中学はケンカで退学し、同志社尋常中学に3年時編入するも、そこでストライキを起こし、またしても中退することになった。関西学院を経て、1905年早稲田大学政治経済学部を卒業した。
関学時代にキリスト教の洗礼を受け、早大では雄弁会に所属し、演説のうまさが大隈重信に認められ、支援によりオックスフォード大学に留学した。
帰国後、1920年政治家となる。齋藤内閣で拓務大臣、第一次近衛内閣で逓信大臣を務め、1940年には大政翼賛会の常任理事になった。
貧困家庭に育ったことから、「貧しい者のために自分の一生を捧げたい」という思いを常に一貫して持っていた。また、グラッドストン(英国の政治家)の反帝国主義思想に深く共鳴し、拓務大臣在任中には帝国主義政策の改善に取り組んだ。
1940年代前半、日本は米国の圧倒的な物量と科学技術の前に苦戦を強いられていた。米国留学経験のある永井は、戦争の勝敗を決めるのは、精神論だけではなく、「科学技術の格差」であると深く痛感していた。
「目先の兵力をいくら増強しても仕方ない。もっと長期的な視野で国家を支えるには、最高峰の科学頭脳を育成しなければならない」
そんな危機感を抱く永井が取り組んだのは、教育改革である。
当時の日本の教育制度は、全員を一律に育てる画一的教育が主流だった(今でもそうです)。しかし永井は、「一人の優れた天才科学者は、何万人もの軍隊に匹敵する力を発揮する」と考えた。
そこで、永井は英才教育の必要性を国会で訴えた。
「日本全国から、数学や理科に抜群の才能を持つ少年、私が想定するのは主に12歳から13歳の少年ですが、彼らを選りすぐり、大学レベルの高度な教育を施し、以て日本を率いる理系のスーパーエリートを養成したい」
当時としては画期的な、飛び級の英才教育の場が必要だと訴えた。
それは、単に「戦争に勝つための兵器開発者を作る」という意味ではなかった。
1944年、すでに東京での空爆が本格化していた。
「たとえこの戦争がどのような結末を迎えようとも、科学技術の力こそが、将来の日本を再建し、世界文化に貢献する原動力になる」と彼は信じていた。「焼け野原になろうとも、未来の日本を背負って立つ、最高峰のエリートを育てたい」そのような次世代への投資という側面も強かった。
永井は1944年12月4日に死去したが、彼の思いは政策に反映された。戦時下当時としては異例の環境がすみやかに整備された。
特別科学学級
1944年9月9日建議、同月11日可決。
文部省通達「科学に関し高度の天分を有する学徒に対し特別なる科学教育を施し我が国科学技術の飛躍的向上を図らんがため、実施に関する方途を研究せんとす」
全国各地の国民学校の4年生から6年生および旧制中学の1年から3年生に対し知能検査が行われ、数学、物理、化学に秀でた生徒が選抜された。
彼らは、東京高等師範学校、東京女子高等師範学校、広島高等師範学校、金沢高等師範学校、京都師範学校に設置された特別科学教育班に振り分けられ、1945年1月から授業開始となった。各学年の定員は30名。
教育内容は極めて高度で、たとえば中学1年で関数、対数、3年で導関数、積分、微分方程式を学ばせた。各高等師範学校に湯川秀樹など当時一流の大学教授が直々に出向いて授業が行われた。
1945年8月敗戦。GHQは「差別的で民主主義に反する」として、特別科学学級の廃止を指示。1947年3月31日を以て終了となった。
以上が永井柳太郎議員の思いに端を発する、日本における「飛び級」の歴史です。わずか2年ほどの期間で、歴史と呼べるほどのものではありませんが。
特別科学学級の出身者として、有名なのは、筒井康隆(1934-)と伊丹十三(1933-1997)でしょう。一人は作家、一人は映画監督で、理系というよりは文系のエリートになってしまったことは、永井議員も苦笑いでしょう。『時をかける少女』とか『マルサの女』を作ったところで、日本の科学技術には何も貢献しませんから。
広島高等師範学校に設置された特別科学学級で学んでいたある生徒が、こんな証言をしている。
1945年7月、授業を終えた湯川秀樹が、生徒たちに告げた。
「次回の授業は休講とします。広島市に住んでいる人は、ご両親に頼んで旅行に連れて行ってもらいなさい。家でじっと休んでいてはいけません。
いいですか、大事なことなのでもう一度いいます。広島市から離れなさい」
生徒たちはポカンとしている。いつも理路整然と話す湯川先生が、やや感情的に、ものを言っている。奇異な印象を受けたが、あとになってみて、湯川先生の言葉の意味が分かった。何かの事情で、湯川先生は知っていたのだ。広島への原爆投下計画のことを。それが何かを明確にいうことは、もちろん許されない。しかしとにかく、未来の日本を担うエリートの卵たちが原爆で一瞬のうちに消えてしまうことが、湯川先生には耐えられなかった。それで、口外する禁を犯してまで、生徒たちに伝えようとしたのだ。
人間は究極的に追い詰められたときに、本性が出たり、様々なアイデアを捻出するものだ。国家存亡の危機にあるときに、追い詰められた日本人がどのような行動をとるか、たとえば特攻には、日本人の国民性がよく出ている。あるいは、原爆開発計画(仁科計画)。
「理系のスーパーエリートを養成しよう」と考えた永井議員の発案は、筋としては全然悪くないと思う。ただ、遅すぎた。それは中長期の展望を見据えて戦間期に出すべきアイデアであって、敗戦直前に取り組む対策としては明らかに的外れだった。しかし、科学技術で国の振興を図るという政策自体は何も間違っていない。実際、日本に進駐したGHQがすぐさま特別科学学級を潰したという事実が、この政策の正しさを裏書きしてるようだ。アメリカとしては、日本から天才科学者が出てしまっては困るのです。
しかし個人的には、これはアメリカの杞憂だったと思っています。つまり、仮にGHQが特別科学学級を潰すことなく、その存続を許したとて、そこから日本を牽引する頭脳が生まれたかどうか、僕は疑問に思っています。
中学3年生の時点で微分方程式をマスターしている。確かにすごいことだ。僕にはマネできない。でもそれは、単に「早熟」というだけではないか?
規定の学習カリキュラムを卒なくこなす生徒というのは、秀才ではあるだろうけど、天才とは違う気がする。
既存の科学界を驚かせるような革新的な技術は、テストで満点を連発する生徒ではなく、どちらかというと教室の隅っこのほうで目立たない、しかし自分の頭でじっくりものを考える生徒のほうが生みだしそうな気がする。
学校のテストという誰かが作った試験問題で高いパフォーマンスを発揮することと、科学の地平を切り開く新しい発明をすることは、相関がないとは言わないけれど、基本的に別の能力だろう。
うちの近くに灘高校がある。大学への進学実績として、年によって多少の変動はあるだろうけど、だいたい1学年200人のうち、半分が東大か京大に行き、4分の1が医学部に行く。「全国トップレベルの進学校」と呼んで誇張はないだろう。
「灘中学校 算数」とか検索して、どの年度でもいいから受験問題を解いてみるといい。「これを12歳の少年が解くのか」と信じられないだろう。もちろん、彼らとて満点をとるわけではない(毎年満点をとるのが数名いるようだけど)。それでも、こんな難しい問題で選別された生徒が集まるのが灘中、灘高なんだ。
特別科学学級は潰されたけれど、灘校を「特別科学学級のようなもの」と考えると、灘出身者が行き着いたキャリアを見れば、特別科学学級が存続した世界線がだいたい想像できる。医者、教授、科学者、弁護士、官僚、技術者など、社会的に高い成功を収めているケースが確かに多いけれど、革命的な業績を残した人はあまりいない。ノーベル賞がひとりいて、それはもちろんすごいことだけど、「神童の集合体」の割りには、期待外れな感じです。
結局のところ、天才というか、早熟だっただけのこと。
10歳で12歳並みの知能があればすごいと思うし、12歳で15歳並みの知能があればすごいと思う。でも、20歳くらいになると周りが追い付いてきて、かつての神童ぶりがかすんでくる。平均への回帰、という統計法則には逆らえない。「天才も20歳過ぎればただの人」に収束していくことになる。発達が早いことと、最終到達点が高いことは、まったく別ものなんだ。

国家主導でエリートを養成できるか?多分、無理です。無理だけれども、この想像にはロマンがあります。
100年前、東大の理学部は医学部よりも入るのが難しかった。これは健全です。理系的才能があるとして、医学部よりは、理学部に行く方がその才能を生かせます。
しかし現在では、理学部と医学部の地位は逆転しました。理系の優秀な学生は好んで医学部を目指します。それなりの安定した収入と社会的地位はあるだろうけど、数学オリンピックのメダリストが医学部に行くような現状がある。まさに才能の無駄遣いです。製薬会社の手先として、年収高々1千万~2千万円程度の小銭稼ぎで満足して、人生を終える(「医学部は才能の墓場」)。そうではなくて、理学部や工学部に行って、その理系的才能を生かせば、もっと違う展開があり得たのではないか。日本の科学技術の振興に一役買う成果をあげられたのではないか。
実は、特別科学学級の生徒には、特権が与えられていた。たとえば、学徒動員の免除。戦争に行かずに、勉強を続けることを許された。あるいは、入学試験の免除。いわゆる「お受験」の勉強をしなくとも、上級学校への進学が保証された。「君たちはそんな些末な勉強はしなくていい。もっと大事な本質を学んでほしい」特権にはそんなメッセージが込められていた。
将来の日本の科学技術を担う「国の宝」として扱われたのだ。
こういう特権は、生徒たちにプライドを与えるとともに、心を引き締めたと思う。
ノブレス・オブリージュ。「高貴なる者は、特権と同時に責任をも背負う」という意識。この意識を持つ人こそがエリートだとすると、特別科学学級と灘校のような「特別科学学級のようなもの」の決定的な違いはそこにある。
前者は、ひょっとしたら、本当の意味でのエリートを生み出せたかもしれない。エリートというのは、国を背負う覚悟と内心に抱く誇りのことなんだ。
しかし、いまや誰も「お国のために」などと思って勉学に励む人はいない。永井議員が今の日本を見れば、何を思うだろうか。