見ること、見られること

たまに行く美容室は、個人宅で、散髪のための鏡台や回転椅子のある部屋からドアひとつ出れば、廊下づたいにリビングに続いている。つまり、ドアひとつ出れば、美容師さんのプライベートな空間になっている。
このドアは、よく回る。6歳の息子さんは客への配慮からあまり顔を出すことはないが、3歳の娘さんが行ったり来たりする。ドアのあいた隙をついて、2匹の猫が入れ代わり立ち代わり侵入して、客の膝の上に飛び乗ったりする。客としては、こんなハプニングも楽しい。

妻と3歳の息子(こうちゃん)とでこの美容室に行ったとき、娘さん(るみちゃん)が来た。人見知りをしない同い年の男児と女児は、1秒で友達になる。しかし、るみちゃんの持ってきたおもちゃに、こうちゃんが珍しく戸惑った。着せ替え人形とキッズコスメ(おもちゃの化粧品)だったからだ。我が家はもちろん、保育園でも見たことのないタイプのおもちゃである。ブロック、ミニカー、怪獣の人形ならお手の物。すぐにでも遊び始めただろう。しかしこうちゃん、リカちゃん人形とアイシャドウを前にして、いったい何をどう遊んだらいいのか、分からない。

幼い男女のディスコミュニケーションをはた目に見て、僕は改めて、男と女が別の生き物であることを知った。
走ったり、ボール投げをしたり、踊ったり、歌ったり。そういう体を使うアクティビティは、いわば「共通言語」で、男女問わず一緒に楽しめる。しかし一方、男の子に特化した領域、女の子に特化した領域がそれぞれ明確にある。
るみちゃんは、ウルトラマンが必殺技スペシウム光線を放って怪獣を倒すことの何が楽しいのか理解できず、こうちゃんは、リカちゃん人形の髪の毛をブラッシングしたり別の服に着替えさせることの何が楽しいのか理解できない。
僕はこの男女の「住み分け」に驚いた。「こんなに違うものなのか」と。

僕は自分が男なので、どちらかというと、こうちゃんの気持ちのほうが分かる。ブロックを組み合わせて何かを作る楽しさ、戦って勝つ喜び、速い車の魅力。そういうのは「男」という性別の中に組み込まれた本能なのかなと思う。
でも僕は、女の子の気持ちが分からない。こうちゃんのように人生をスタートしてまだ間もない子供ならともかく、こんなオッサンになってもまだ女の子の気持ちはよく分からない。妻とちょっとしたことでよく口論になるのも、このあたりが原因かもしれない。

分からないけれども、学ぶことはできる。人生の一時期、哲学を志していたことがある。哲学科の教授たちの講義のなかに、「女性とは何か」を理解するヒントがあった。

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Jean-Paul Sartre (1905 – 1980)

実存主義哲学を創始したサルトルは、右目に強度の外斜視がありほとんど見えず、小柄だった。この身体的特徴は、幼少時からサルトルに強いコンプレックスを与えた。「他者のまなざし」により、自分自身の存在が客体として浮き彫りになり、固定化される。その恐怖から何とか逃れようとして、自分を選択し続ける「自由」を求める。
彼の哲学は、自身の障害や体格に対する否定的な視線を乗り越えようとする葛藤から生み出された。

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Simone de Beauvoir (1908 – 1986)

「サルトルの恋人」ボーヴォワールは、サルトルの思想の影響を強く受けながら、独自の理論を展開した。
「ジャン、「見られる」ことで客体になるのは、あなただけじゃない。女という性別それ自体が、男から見られることを強いられているのよ」と。

改めて言うまでもなく、男性優位の社会である。「女性の社会進出」などと連呼する昨今の情勢自体が、社会の男性優位性を証拠立てている。
社会の中で、男は常に主体(見る側)で、女はその視線にさらされる客体(見られる側)である。女は自分の体を「美」の対象として認識し、男のまなざしに応えることで、自己存在を確認する。
ボーヴォワールは鋭く指摘した。「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」と。
もちろん、男性アイドルグループに熱狂する女性ファンなど、女が主体となり、男を「見られる側」として消費する場合もあるだろう。しかしポルノの流通量を考えてみればいい。男が、圧倒的に女を「見つめる側」であることは明らかだ。

ボーヴォワールは少女の成長過程を詳細に分析している。
少女は思春期になると、男から「見られる存在」になり、自分の体を性的な「対象」として意識する。ここで初めて「自分は女性である」という自己意識が形成される、と。

しかし僕は思うのだけれど、思春期のもっと前、何なら生まれた瞬間から、女性は本能的に分かってるんじゃないかな。
それはるりちゃんのおもちゃを見ればわかる。
着せ替え人形とかキッズコスメとか、きれいに着飾ったり身だしなみを整えたり、どれも将来「見られる側」になることを見据えた練習のように思えるから。

妻はこうちゃんに、いろんな服や靴を買い与える。はたで見ていて「そんなにいっぱい要らんやろ」と思うけど、女性は「見られる」ことに備えたい本能があるんだと思えば、一応の納得ができる。
考えてみれば、妻と僕が口論になるのも「ヒゲが汚い」とか「服をもっとちゃんとして」とか、見た目についての指摘がきっかけのことが多い。
逆に、僕のほうから妻の服装とかファッションについて指摘したことは皆無に近い。男の僕には、「人から見られることに備えろ」という概念が希薄なんだな。「見る側」なので。

医学も哲学も含め、学問全般そうだけど、楽しいから学ぶのであって、別に実社会に役に立つかどうかはどっちでもいいと思っている。
でも多少なり役立つところがあるとすると、ものごとをメタ構造でとらえられるようになることだ。「こういう臨床所見と検査結果があるから何々病と診断できる」とか「女性のこういう行動は何々理論で説明できる」とか。
一応、女心を理解したつもりにはなれます。しかし、さりとて、妻との口論は絶えない。僕がまだまだ人間的に未熟なせいかもしれません(笑)

>中村篤史について

中村篤史について

たいていの病気は、「不足」か「過剰」によって起こります。 前者は栄養、運動、日光、愛情などの不足であり、後者は重金属、食品添加物、農薬、精製糖質、精白穀物などの過剰であることが多いです。 病気の症状に対して、薬を使えば一時的に改善するかもしれませんが、それは本当の意味での治癒ではありません。薬を飲み続けているうちにまた別の症状に悩まされることもあります。 頭痛に鎮痛薬、不眠に睡眠薬、統合失調症に抗精神病薬…どの薬もその場しのぎに過ぎません。 投薬一辺倒の医学に失望しているときに、栄養療法に出会いました。 根本的な治療を求める人の助けになれれば、と思います。 勤務医を経て2018年4月に神戸市中央区にて、内科・心療内科・精神科・オーソモレキュラー療法を行う「ナカムラクリニック」を開業。

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