ある料理人の話

60代男性
「診断は慢性多発性脱髄性神経炎って言われてる。舌かみそうな長い病名だよね。それで基本、家で横になってる。一応歩けなくもないけど、数十メートルも歩けば足腰がしびれてくるし、手作業しても手がしびれる。昔はどれだけ長くフライパンを振っても疲れなかったけど、今は厨房に立ってるのもきつい。
生活保護のおかげで、細々と暮らせてる。先生、自費診療っていうけど、お高いんでしょ。サプリなんて無理だよ。毎日の食費と、ほら、今凝ってるのが紙粘土細工でさ、この写真見て。僕が作ったやつ。上手にできてるでしょ。百均で紙粘土と絵具、ニスとか買ってきて、それで毎日こういうの作ってる。何かと凝り性で、ものづくりが好きなんだよね。

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先生、今の僕を見ても想像できないだろうけど、僕は昔、料理人だった。それも、世界中のVIPに料理を振る舞うような、超一流の。自分でいうのも何だけど(笑)天皇陛下やチャールズ皇太子、トランプとか各国の大物政治家、超有名アーティストも僕の料理を食べた。ワールドマスターシェフに選ばれて、ヨーロッパ各地のフォーラムでは講師として登壇したし、数えきれないほどのメダルをもらった。

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そんな僕が、いまや、岡山の片田舎で生活保護受給者だっていう。10年前ドバイにいたときに「10年後、お前は岡山で生活保護をもらって生活している」なんて占い師に言われても、絶対信じなかったと思う(笑)人生って本当、何がどうなるかまったくわからないよね。

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料理人になることが小さい頃からの夢だった、というわけでもないんだよ。東北で生まれ育って、高校を卒業してからすぐに東京に飛び出した。某レストランで職を見つけたけれど、毎日理不尽と怒号と鉄拳が飛んできて、地獄だった。かろうじて、休日にバンド仲間とドラムを叩くことだけが、僕の息抜きだった。
地獄のような毎日だったはずなんだけど、今思い出せば、キラキラしてるんだよな。不思議なことに。まぁ、体力だけは人一倍あったし、未来への希望はもっとあった。具体的な夢じゃない。「とにかく何者かになってやる」という漠然とした未来への希望。若者ってそんなもんでしょ。
料理と音楽、両方の夢を叶えられたらな、ぐらいのビジョンで、毎日を過ごしていた。

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21歳のとき、ロサンゼルスへ渡った。LAといえば音楽と映画の街だよ。流行の発信地で、自分のドラマーとしての腕がどれほど通じるか、試してみたかった。
同時に、アメリカのレストランで経験を積みたいという思いもあった。ツテもコネもないから、ロサンゼルスにあるレストランを片っ端から訪れては「雇ってください」とお願いして回った。いきなりそう言われても、ろくに英語もできない東洋人を雇ってくれるほどのお人好しはいない。でも14件目に行ったレストランの主人が「俺も移民で、最初はずいぶん苦労した。だからお前の気持ちは分かる。チャンスをやろう」そういって、雇ってくれた。
僕の料理に対する感性は、このレストランで磨かれた。様々な人種がいる街だから、様々な料理を提供する。自由で創造的なカリフォルニア料理、情熱あふれる中南米料理。日本でずっと耐え忍ぶだけでは絶対に得られなかったであろう料理人の感性を、この街は僕に与えてくれた。
同時に、僕はドラマーとしての道に限界を感じ始めていた。世界中から集まったミュージシャン志望の若者たちがいて、彼らのライブを間近で聞いているうちに、才能の壁を感じないわけにはいかなかった。そこで初めて気づいたんだね。自分が本当に情熱を注ぐべきなのは、音ではなく、食なのだと。

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帰国後、フランス料理店に勤め、日々研鑽を重ねるなかで、フランスの星付きレストランに研修へ行く機会を得た。
その研修期間中、ミッテラン大統領の公式晩餐会があって、そこで僕は、スープとソースの担当を任された。胸が震えるような大役です。結果、大統領にお喜びいただけたことは、僕のなかで一生の誇りです。

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その後、駐日オーストリア大使館の料理長に抜擢された。その頃、昭和天皇の崩御に伴い、平成天皇の即位の礼が行われた。それに合わせて、オーストリアのワルトハイム大統領が来日し、大使館で食事をされるということで、僕にとっては重大な仕事だった。緊張の中で準備した晩餐会は、無事に成功を収めた。大統領自ら厨房に来られて、温かい賛辞とメダルをいただいた。当時僕はまだ25歳だった。

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以後、8年にわたり、大使館で日本国内外のVIP(皇族、王族含め)のために料理を提供してきた。毎年2カ月の夏休みにはウィーンなどヨーロッパ各地のレストランに研修に行き、技術と感性を磨き続けた。
その傍ら、様々なレストランのアドバイザーとしてメニュー開発やオペレーションのサポートを行いました。料理研究家の○○っているでしょ。僕はあの人の「影武者」をしていたことがある。メニューを提案したり、レシピを教えたり、雑誌に載る写真は僕が作ったものだったり。
そういうのは表に出ない仕事だけど、そもそもね、僕は料理人というのは、常に裏方の仕事だと思っている。当時日本にはまだミシュランガイドはなかったけれど、僕が働いていたのは、今では星付きのレストランばかり。料理人として、最大限のおもてなしをするわけだけど、会計時の請求額を見てもビックリすると思う。最高の食材を仕入れて、最高の技術で料理して、食べた人に感動を与える。それでも、僕ら料理人の仕事は裏方です。お客さんは、特別な日を求めて来店される。恋人と来られる人、成人式を迎えた息子を祝う家族、結婚30年の記念に来店する夫婦。僕らの料理や店の内装は、そういう特別な日を彩るための額縁なんです。裏方だけれど、僕はそこに誇りを持って40年仕事を続けてきました。

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大使館の仕事を退職した後、渋谷で自分の店を構えた。朝から深夜までひたすら料理と向き合い、店の評判も高まり、ありがたいことに、常連のお客さんにも恵まれるようになった。しかし日々の無理がたたって、持病が悪化して、店を閉じることになった。

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悪いことは続くもの。
『料理の鉄人』というテレビ番組、知ってる?腕に覚えのある料理人が2人出演してさ、自慢の料理をふるまう。それで審査員が評価して、どっちがおいしいかを決める料理対決の番組。出演オファーが来て、番組のプロデューサーと話したことがある。番組の企画とか撮影の流れをひと通り説明してもらったあと、プロデューサーがボソッと「勝ちたい?300万円で勝てるよ」
袖の下を要求しているわけです。僕はこれを聞いて、カッとなった。咄嗟に手元にあったコップに手が伸びて、プロデューサーの顔に水をぶっかけた。
「バカにするんじゃないよ」
その後、激怒したプロデューサーがあらゆる方面に手を尽くしたようで、僕のメディア、雑誌関係の仕事は一切なくなりました。

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ある星付きホテルで働いていたとき、ある外国のお客様から「今度うちに来て、料理を作ってくれないか」と誘われた。
数日後、実際にお宅にお邪魔して、料理をふるまったところ、「こんなにおいしい料理は食べたことがない。できれば君の料理が毎日食べたい。うちの専属シェフにならないか」
この人は、サウジアラビアの大富豪だった。世界長者番付でも上位にランクインするような、想像もできないほどの大金持ち。
それで僕は、サウジアラビアに旅立つことを決意した。

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サウジアラビアのジェッダ。ここで僕は10年以上の歳月を過ごすことになった。
大富豪の一家とともに、プライベートジェットで世界を巡るという経験をさせてもらった。ロンドン、パリ、モナコ、イスタンブール、ドバイ。あちこちに別荘があって、そこを訪れる世界的セレブリティに料理を振る舞う。そんなことが僕の「日常」になった。
別荘に行くときには、僕は前日入りする。ボスはプライベートジェットを2台持ってる。富豪一族と一介のシェフが、狭いジェット機のなかで長時間じっとしているのは、ストレスなんだよね。僕にとっても、富豪一族にとっても。それで、僕はボスのプライベートジェットの1台を使って別荘に前日入りして、料理の仕込みをしたり、ちょっとした観光をしたりする。
あるとき、ロンドンに行ったとき、別荘にU2が来た。知ってる?世界的なロックバンドだよ。「僕はあなた方の演奏を聞いて、ミュージシャンをあきらめて、料理の道に進んだ」と言ったら、彼ら、笑ってた。
これもロンドンに行ったときのことだけど、別荘にチャールズ皇太子が来た。食後、僕にこう言った。「今日の料理は絶品だった。母にも食べさせたい。だから、私の専属シェフにあなたの技を教えてもらえませんか」
実は同じような言葉は日本の皇室の人からも言われたことがある。皇族の人って、「うちに料理を作りに来てもらえませんか」とは絶対言わないんだよ。毒を盛る可能性とか、下々の庶民が皇族に手料理を提供するなどまかりならんということなのか、分からないけど。「うちの料理人にお前のレシピを教えてくれ」という言い方をする。

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ボスに「皇太子からの願いなのですが、教えに行って来てもいいですか」というと、ボスは満面の笑みで「ぜひ行って来い」と。
それで、イギリスのバッキンガム宮殿に行って、向こうの料理番にレシピを教えた。

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いろんなセレブに会ってきた。誰もが憧れるスーパースターとか、圧倒的な権力を持つ政治家とか。そういう経験を日常的にしていると、多少の有名人に会ったところで、特に何も感じない。
そんな僕だけれど、バッキンガム宮殿に行って、レシピを何品か教えて、その後、自分の部屋にひとりでいると、「俺は今さっき、何をしてきたんだろう」というような、ふと夢と現実の境目が溶けたような、妙な感覚になった。
だってそうだろう?僕は岩手の盛岡で育った。盛岡といっても、市内からはずいぶん離れた、畑と山しかない、誰がどうひいき目に見ても田舎者だよ。そんな自分がだよ、歴史と格式のあるバッキンガム宮殿のシェフにレシピを教えてる。「俺はなぜ、今、こんなところにいるのか」いつからこの夢が始まったのか、よく分からない感覚になったとしても、無理はないだろう。

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コロナが始まった頃、病院に行くと、首の骨に損傷が見つかった。それでチタンを埋め込む手術をしたのだけれど、術後すぐに、体調がもっとおかしくなった。帯状疱疹が出て、腰や脚にも違和感がある。それでまた病院に行くと、今度は腰椎をチタンで補強する手術が必要だという。
料理人としては絶頂期で、僕はヨーロッパ各地のフォーラムで講師として登壇し、ワールドマスターシェフという称号も与えられた。
でも、もはや、体の自由がきかない。長く続く入院生活とリハビリの日々。
ボスのために10年以上にわたってご奉仕してきたけれど、この体ではご迷惑をかける。それで僕は、ボスのもとを離れることにしました。

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ベラルーシ出身の女性と交際していた縁で、ベラルーシのミンスクに行くことになり、そこで自分の店を開業した。

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東欧とアジアを融合させた「アジアンフュージョン」をコンセプトに掲げたレストランで、僕はこれまで培ってきた技術と食材を駆使して、新たな創造に挑戦した。伝統と革新、東洋と西洋が交差する美食のフロンティアを切り開こうという思いでした。
複数のレストランのアドバイザーなどの仕事が順調に進み、ベラルーシでも名前が知られ始めた矢先、ロシアとウクライナで戦争が始まった。戦争となればベラルーシはロシア側なので、日本大使館から「速やかに帰国せよ」との通達があった。日本に帰ってもよかったのだけれど、友人の縁からドバイに拠点を移すことにした。

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ドバイのカフェレストランで働き始めた。料理が評判を呼び、客席からの反応も上々だった。
しかしご存知でしょうか、中東、特にドバイは人種差別がひどいんです。マネージャーのスタッフに対する人種差別があまりにも露骨なので、僕はそれに正面から衝突して、その場で辞表を叩きつけた。
これまでボスの別荘があったことから、ドバイには何度も行ったことがある。でも僕はボスの庇護のもとでぬくぬくと仕事をしていたから、幸いにもそんな人種差別に直面することがなかった。今、一般のレストランで働くようになって初めて、人種差別を経験した。僕はそれが許せなかった。

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ドバイのマリーナで働いたのだけど、新しく来た日本人オーナーがひどかった。別の日本人アドバイザーを連れてきて、僕のメニューを一刀両断した。どこにでもあるような和食メニューになり、客足は低迷した。その責任を僕に押し付け、給料が支払われない。どこかに訴えようにも、労基なんて組織はない。蓄積するストレスが僕の体を精神を蝕み、僕は仕事ができなくなった。
僕が去って1か月後、店は閉店した。

どん底にいるときに、ドバイで出会った知人が「飛行機代は私が出すから、日本に帰ってこないか」という誘いを受けた。
ボスのもとで働いていた頃は、多忙の極みだった。母や姉の逝去を聞いたときでさえ、世界の要人をもてなす任務の最中であることから、帰国はかなわなかった。「母が亡くなったんです、どうしても帰らせてください」と言えば、ボスはしぶしぶ許可してくれただろう。でも僕のいない間、ボスは要人に料理をふるまうことができない。ボスの恥は、僕の恥でもある。だから、僕の中で、望郷の念は抑え込まれて、数年も経つ頃には日本に帰りたいとも思わなくなっていた。
でも今や、僕はすっかり消耗していました。様々な思いを胸に、日本行きの誘いに乗ることにしました。

ちなみに今、岡山に住んでいるのは、ドバイで僕に給料を払わなかった日本人オーナーが岡山出身の人で、その人に金を払えというためです(笑)」

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僕はこの人(坂本さん)の話を聞いて、その経歴に圧倒され、魅了されました。
料理人としての実力は本物で、そんな才能のある人が、その才能を生かす場を与えられず、生活保護で暮らしている。
何かが間違っている、と思いました。
体は悪いけど、饒舌で、まぁよくしゃべるしゃべる(笑)人を楽しませるのが好きで、そういう性格は話していると伝わるし、その性格こそ、この人を一流の料理人たらしめた原動力だろう。料理で人を感動させ、楽しませる。僕にはマネできない芸当です。
曲がったことが大嫌いで、それはたとえば、某番組プロデューサーに水をかけた話なんかによく出ている。ここでうまく立ち回る人であれば、「300万円か、テレビの宣伝効果を考えれば悪くない」などと小ずるく考えて、あっさり払ったと思う。払うどころか、水をぶっかけちゃうという、夏目漱石の「坊ちゃん」並みの破天荒だ。
坂本さんの人生は、ネットフリックスとかでドラマ化しても十分鑑賞に堪えるストーリーになると思う。
僕としては、こんなに才能のある人が世に埋もれているのがもどかしい。
僕ができるサポートは、医者として助言をしてあげることぐらいだけど、どうでしょうか、飲食店を経営している人で、新商品開発に行き詰っている人、新たなコンセプトが欲しい人、何か助言が欲しい人は、坂本さんにオファーしてみませんか。今なら格安で受けてくれると思いますよ(笑)

>中村篤史について

中村篤史について

たいていの病気は、「不足」か「過剰」によって起こります。 前者は栄養、運動、日光、愛情などの不足であり、後者は重金属、食品添加物、農薬、精製糖質、精白穀物などの過剰であることが多いです。 病気の症状に対して、薬を使えば一時的に改善するかもしれませんが、それは本当の意味での治癒ではありません。薬を飲み続けているうちにまた別の症状に悩まされることもあります。 頭痛に鎮痛薬、不眠に睡眠薬、統合失調症に抗精神病薬…どの薬もその場しのぎに過ぎません。 投薬一辺倒の医学に失望しているときに、栄養療法に出会いました。 根本的な治療を求める人の助けになれれば、と思います。 勤務医を経て2018年4月に神戸市中央区にて、内科・心療内科・精神科・オーソモレキュラー療法を行う「ナカムラクリニック」を開業。

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