家族の形

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『探偵ナイトスクープ』がヤングケアラー問題で大炎上している。
番組に届いた12歳男子からのお便り。共働きの両親に代わり、この12歳長男が弟や妹の世話や家事に忙殺され、消耗している。「1日だけ長男を代わって欲しい」という依頼で、霜降りのせいやが探偵として御家庭を訪問する。長男の代わりに家事をしたり子供たちと遊んだりして1日を過ごした。1日の最後、せいやが「お前はまだ小学生や!大人になるなよ!」といって、長男を抱き上げる。撮影を終了し、撮影クルーがお宅を引き上げるとき、家の中から母親が長男を呼びかける声がする。「米炊いて!7合」
番組放送終了後、視聴者から「この長男はヤングケアラーそのもの。過大な家事負担を押し付けられて、子供が子供らしく過ごす時間もない。ある種の虐待ではないか」という旨の批判が殺到し、SNSも大いに炎上し、ついにはテレ朝が謝罪する事態にまでなった。

SNS上の意見は母親を批判する声ばかり。確かに、この母親に問題がないわけではない。家事手伝いを雇うとか、長男のためにもうちょっと配慮してもいいのではないかと僕も思う。
でも、より根本的には、これは社会構造の問題だろう。
ナイジェリア人の友人とたまたまこれについて話す機会があって、こんなことを言っていた。「ナイジェリアの女性は子だくさんで、平均6人か7人の子供を産む。でもナイジェリアは、日本みたいな核家族ではなく、大家族だから、ヤングケアラー問題なんて絶対起こらない。祖父母が同居するのはもちろん、叔父家族や叔母家族なんかも同居して寝食をともにする。みんなが正業があるわけじゃないから、暇なおばあちゃんとか仕事のないニートみたいな叔父さんが赤ちゃんの世話をしたりする。当人からすれば、手間どころか、何ならうれしいぐらいだよ。毎日ヒマでやることがなかったところ、赤ちゃんの世話ができて楽しいから(笑)」

みんなが助け合って生活している。誰かに家事負担が集中することがない。
複数家族が寄り集まった大家族というのは、すごく能率的なんだ。ひとの能力は均一ではない。料理を作るのが得意な人、子供の相手をするのが大好きな人、普通の会社に出勤して金を稼ぐのが上手な人。各人の得意分野があって、各人が得意なことをすればいい。料理をするにしても、たとえば12人分の食事を作ることは、4人分の食事を作ることの3倍大変かというと、全然そんなことない。大きな鍋で一気に作るから、12人分作るのは4人分作る手間とそれほど変わらないんだ。子供の遊び相手も同じ。子供と遊ぶのが上手な人にとっては、複数人の子供の遊び相手をすることは、1人の子供と遊ぶのと、手間はたいして変わらない。なんなら複数の子供がいると、子供同士で遊び始めたりするから、むしろ労力は楽だったりする。
大家族には、常に誰か手の空いた人がいて、その人がサポートに回ってくれる。こんな幸せな空間ってないだろうと思う。

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ただし、幸せな分だけ、「思想」は育たないかもしれない。人生の壁に突き当たったときになって初めて、人は内省を促される。内なる対話が始まり、「自分」が作られていく。孤独な作業であり、孤独なしにこんな作業はできない。家に帰ればいつも誰かがいて、自分を優しく気にかけてくれて、という幸せな状況では、「自分」に直面せずに生きていくことができる。
「不幸は人を哲学者にする」とソクラテスは言ったけど、哲学者を生み出してしまうような社会自体が不幸だと僕は思います。

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2026年1月3日、広島で講演をした。
事前の打ち合わせで、主催者から「テーマは縄文回帰でお願いします」
いや、コロナ関係とか医療系のネタならいくらでも話せますが、縄文ですか?講演を依頼する相手、間違ってませんか?(笑)
「いえ、先生の切り口から、何でもけっこうです。「縄文の医療」とか「縄文と現代の比較」とか」
縄文回帰、というのもちょっと、どうですかね。僕のなかの縄文のイメージは、多分、世間一般の人のそれと相当違っていると思いますが、大丈夫ですか。

縄文時代といえば、1万年以上続き、富の偏在もなかったことから、現代よりも平和で、豊かで、幸せだったというのが、世間のイメージだと思いますが、必ずしもそうではないようです。たとえば、

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1920年に倉敷市で発掘された人骨。6千年ほど前の成人女性の骨だと推測されている。頭蓋骨の右側後頭部に穴がある。CTなどを使って詳細に分析したところ、鹿の角のような鋭利な穿刺具で破壊的にあけた穴であることが分かった。
どういう状況だったと思いますか?
丁寧に埋葬されていたことから、恐らく身分は高い。卑弥呼の例に見られるように、当時は女性が政治などの指導的立場になることは当たり前だった。
だとすれば、この女性は、政敵から暗殺されたのではないか。背後から、後頭部を一突き、という具合に。

いい加減、「平和主義ののどかな縄文人」というイメージは卒業したほうがいいと個人的には思っています。
縄文の人だって、ムカつくときはムカついただろうし、明確に殺意を持って誰かを殺すことなんて、当たり前にあったんじゃないかな。
だいたいさ、狩猟採集の時代でしょ。鹿とかイノシシ、クマとか、上手に殺す技術は、現代の比じゃないくらいに洗練されていたと思う。「生き物の命をいただく」ことが日常で、その技術もすごかったとすれば、ヒトのどこを突けば殺せるか、そんなことは当然知っていたはずなんだよ。殺すことへの道徳的な抵抗感も、現代人よりはるかに低かったんじゃないかな。

そこらへんを歩いて、道行く人の顔を見てください。同じような顔のひとが、縄文時代の構成員です。これは推測ではなくて、DNAで分かっている事実です。

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ゲノムモンタージュという犯罪捜査の手法がある。事件現場などに犯人の体の一部(体液、髪の毛など)が残っていた場合、そのDNAを分析することで、犯人の遺伝子から推測されるモンタージュ写真の作成が可能になる。アメリカではこれが犯罪捜査に絶大な効果を発揮し、迷宮入りかと思われた難事件が次々と解決した。
この手法は、もちろん考古学にも適用可能で、たとえば、歯髄にあるDNAを分析することで、このような顔が得られた。

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もっと現代っぽい髪型にして、現代風の服を着せれば、何の違和感もなく現代に溶け込むはずです。
少なくとも外見的には、現代の僕らと同じような人が縄文時代の日本を生きていた。「まぁ、そうだろうな」と、当たり前といえば当たり前のことだけど、実際DNAをもとに再現した顔を見ると、その当たり前がぐっと胸に来る感じがあります。

あるいは、縄文時代の豊かさを示す例として、

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10代後半の女性の人骨。調べて見ると、手足の骨が異常に細い。こんなに細いということは、骨に負担のかからない生活をしていた、つまり、歩けなかったことを示している。恐らく、幼少期に小児麻痺などにかかり、麻痺したまま寝たきりで一生を過ごした。しかし、それなりの年齢まで生存できた。
ということは、周囲からの介護があったことを意味する。
共同体に利益をもたらす(エサをとってくる、家事労働をする、子供を産むなど)ことができない存在であっても、ばっさり切り捨てるようなことをしなかったのは、それだけの豊かさがあったということだろう。

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犬の埋葬例もある。骨を調べると、生前に負った傷がある。猟犬として使い物にならなくても、ペットとして飼い続けたということだ。
犬を可愛がるところまで、縄文人は現代人と同じだった。

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合葬された人骨の出土例がある。状況的に、親子だと推測された。
しかしDNAを調べて見ると、なんと、赤の他人だった。合葬されるぐらいだから、両者の間には浅からぬ縁があったに違いない。しかし遺伝的にまったくの他人だとは、どういうことか。

縄文を理解するために、現代の家族観を持ち出しては失敗する。恐らく当時の「家族」は、もっと流動的だった。
たとえば満月の日。共同体のなかで宴会が行われる。焚火をたいて、人々がその周囲を踊り、豪勢な肉を食べたり特別な酒を飲んだりする。やがて高揚のなかで、若い男女が入り乱れて、体の関係を交わす。10か月後、共同体のなかの複数の女性が出産する。
こんなふうにして生まれた赤ちゃんは、「○○家」の赤ちゃんではない。共同体全員の子供なのだ。
初産で乳の出が悪い女性などがいると、別の女性が代わりに授乳してくれる。乳の出が悪い女性は、お返しにその女性の家事労働を手伝ったりする。
みんなの子供だから、みんなで育てる。
こういう共同体の絆は強い。「赤の他人」なんていない。
DNAを調べて「親子ではなかった!」と当惑する現代人を見て、調べられた女性は笑っているだろう。

民俗学の知見によると、乱婚型の地域は、縄文時代までさかのぼらずとも、明治以前まで日本のあちこちに存在していた。
明治になって西洋のキリスト教的価値観が導入され、そのような風習は「原始的」と否定された。裸は恥ずべきものとされ、自然な性的欲求は、何か穢らわしい、忌むべきものとされた。
たとえば、かつての日本では温泉といえば混浴が当たり前だった。異性であれ同性であれ、裸は単なる裸であり、裸であるというそれだけで欲情することなどなかったのに、卑猥なものとされ、禁じられた。
かつて強固な結束を誇った共同体が崩壊し、核家族が最小の単位となり、個人の自立が推奨された。

縄文は遠くなりにけり。
こんなふうに、西洋流にすっかり染まった僕ら現代人が、何か急に、とってつけたように、「縄文回帰」を言い出すなんて、駄々っ子のないものねだりのようで、なんだか滑稽だ。
縄文には縄文の幸せがあり、不幸があった。現代も同じです。
ただ、冒頭の12歳少年のような不幸を見ると、核家族社会のもろさを感じます。子供を6人産んで、その家事育児の負担だけできしみが来る。なんて弱いシステムなんだと実感します。縄文時代なら、あるいはアフリカなら、負担のバッファーがあったのにね。

>中村篤史について

中村篤史について

たいていの病気は、「不足」か「過剰」によって起こります。 前者は栄養、運動、日光、愛情などの不足であり、後者は重金属、食品添加物、農薬、精製糖質、精白穀物などの過剰であることが多いです。 病気の症状に対して、薬を使えば一時的に改善するかもしれませんが、それは本当の意味での治癒ではありません。薬を飲み続けているうちにまた別の症状に悩まされることもあります。 頭痛に鎮痛薬、不眠に睡眠薬、統合失調症に抗精神病薬…どの薬もその場しのぎに過ぎません。 投薬一辺倒の医学に失望しているときに、栄養療法に出会いました。 根本的な治療を求める人の助けになれれば、と思います。 勤務医を経て2018年4月に神戸市中央区にて、内科・心療内科・精神科・オーソモレキュラー療法を行う「ナカムラクリニック」を開業。

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