『アサイゲルマニウム』の生みの親、浅井一彦博士はドイツ留学中に現地の女性と知り合い、恋に落ち、結婚して四人の子供(一男三女)をもうけた。

昨日、新百合ヶ丘の浅井ゲルマニウム研究所を訪れた際、ドイツ在住の洋子さん(浅井博士の次女)と偶然お会いする機会を得た。軽食をともにしながら、1時間ほどお話することができた。
洋子さんは現在83歳。毎年一度だけ来日し、浅井ゲルマニウム研究所を訪問し、1年分のゲルマニウムを購入する。それが洋子さんの、ここ数十年続く行事なのだ。
洋子さんは頭脳明晰で、体もしっかりしておられたけれども、それでも、ずいぶんな高齢なので、いつ何があってもおかしくない。例年、やはりドイツ在住の三女の明子さんと一緒に来日するのが通例だったけれども、明子さんは2年前に癌を患った。手術して安静を保っているものの、日本への長距離フライトに耐える体力はなかった。洋子さんが単身日本に来るのは、これが初めてだという。
77年前に初めて日本の土を踏んだとき、洋子さんは一人ではなかった。母、祖母、他の兄弟とともに貨物船に乗り込み、大西洋を回る長い航海を経て、横浜の埠頭に到着した。出迎えに行った父一彦の喜びぶりはたとえようもなかった。なにしろ「家族に会わせろ!ドイツまで行く出国許可を出してくれ!」とGHQ本部に行って、マッカーサーに直談判に行った。それぐらいに再会を熱望していた家族なのだから。
「日本語、ペラペラですね」と僕が間抜けみたいなことを言うと、
「でも、切り替えが大変になってきました。この50年ほどずっとドイツにいて、ドイツ語ばかりなので。姉や妹と電話とかで話すときは、あえて日本語で話すようにしています。忘れないために」
洋子さんは6歳で日本に来てから、そこから小学校から中学、高校までずっと成城学園で学んだ。
当時は、ハーフというだけで目立った。しかし洋子さんはそれだけではなく、大変な美人だった。たまたま洋子さんを見かけた街の写真屋のオヤジが、居ても立ってもたまらず、こう声をかけた。「ぜひ写真を一枚お願いできませんか」応じたら、その写真が写真屋のショーウインドウに額縁付きで飾られ、長らく道行く人の目を引いた。

中学校のとき、コーラス部に所属していた。5学年上の先輩に小澤征爾がいて、後進のコーラス練習のたびにタクトを振るった。後に世界的な指揮者として大成する小澤も、このハーフ美女の美しさにやられてしまった。恋心を抑えられず、洋子さんにアプローチした。それもかなり熱烈に。困惑した洋子さんは父に相談した。
https://note.com/nakamuraclinic/n/n4b3354fa1f53

「大学を卒業してから、たまたま日本駐在のドイツ人の商社マンの方とご縁があって結婚しました。子供ができてからドイツに移住しました。そこからは基本、ずっとドイツです」
「浅井先生の本『ゲルマニウムと私』に、「娘が妊娠したとき、ゲルマニウムを飲んで安産だった」という記述がありますが、あれは、、」
「私のことです。姉にも妹にも子供がいますが、本の中で言っている妊婦は、私のことです」
ここで、妻が「私も妊娠中はゲルマを飲んでいて、それで生まれたのがこの子、こうちゃんです。こうちゃんは妊娠中も胎盤経由でゲルマを飲んでいたし、生まれからもゲルマを飲んでいて、健康そのものです」
妻がこんな無茶ぶりをした。
「あっちゃんもドイツ語、話せますよ。ドイツ哲学科卒業なので」
洋子さんがじっとこっちを見る。仕方ない。腹をくくってドイツ語をしゃべると、意外にもけっこう話せた。
「お上手。言ってること、分かります」
浅井一彦という伝説の人物の、直接の血を継ぐ娘さんである。僕は浅井先生へのリスペクトを示すために、僕の好きな逸話を話した。
「浅井先生は嵐のような人でした。マッカーサーへの直談判もそうですし、浅井ゲルマニウムを作ったこともそうですが、あんなに勇猛果敢な人は他にいません。
戦争末期、ベルリンが英米軍の飛行機によって爆撃されていた頃、あるアパートに焼夷弾が落ちた。アパートが燃え始めて、住人が逃げ出すなか、ただ一人、少女が屋上に取り残された。泣き叫ぶ少女を助けようにも、火の勢いが強くて誰も助けに行けない。そんななか、浅井先生が火の中に飛び込んで、屋上まで行って少女を抱きかかえ、4階から地上に飛び降りた。浅井先生は意識を失って倒れたけれど、その一部始終の様子を退役した将軍が見ていてヒトラーに指示を出した。「あの男の行動は勲章に値する」と。それで、ヒトラーから剣付き鷲十字の勲章という、ドイツ軍人にだけ与えられる最高の勲章を与えられた。それが1944年のことです。
屋上でひとり取り残され、そして浅井先生に助けられた女の子はユダヤ人でした。その少女を助けた功績で、2017年浅井先生はユダヤ人ホロコーストセンターから感謝状が贈られました。
ヒトラーから勲章を贈られ、ユダヤのホロコースト団体から感謝状を贈られた。こんなぶっ飛んだ人は、あなたのお父さんしかいません」
https://note.com/nakamuraclinic/n/n8a3c0a9eac2a
洋子さん、ほほえんで、「そう、勇敢でした。そんな浅井先生の思いを、あなたが引き継ぎ、また、浅井ゲルマ研究所の社員たちが引き継いでいる。そのことを私はうれしく思います」
僕はコロナ禍で世間からずいぶん叩かれたけれど、そんな経験も浅井先生が潜り抜けてきた嵐の激しさのことを思えば、何ほどのことでもないように思います。
浅井先生の生きざまを見ていると、「もっと激しく生きたい」「もっと強烈に命を燃やしたい」という、不可解な意欲が胸の内側から湧いてくる。
死んでなお、後世の人に影響を与える。そういう人こそ偉人ですね。