
今こうちゃんは、『パンどろぼう』にハマっていて、「これ読んで」と持ってくる絵本も『パンどろぼう』シリーズが多い。
難波の高島屋で、パンどろぼうフェスティバルがあるというので、こうちゃんを連れて行ったところ、大いにテンションが上がっていた。

しかし日頃、患者に「パンは控えめにね」と指導している僕としては、内心ちょっと複雑ではある。こうちゃん、パン好きになってしまわないかなと。まぁそういうことを言い出せば、『アンパンマン』もかなり微妙だけどね。しょくぱんまんとかカレーパンまんとか、これでもかというぐらいにパン勢ぞろいで(笑)
しかし不思議と、『アンパンマン』にハマっても『パンどろぼう』にハマっても、こうちゃんが「パンを食べたい!」ということはあまりない。一度食べて見れば、「こんなものか」と納得して、特にパン食にハマることはない。「そういうキャラなんだ」という認識だけで、それが「パンを食べたい」という欲求につながることはない。大人の心配をよそに、子供は案外冷静みたいだ。
そういう話を鵜川さんとしていると、鵜川さんがふと、「そういえば、チーズ蒸しパンってあるやん。コンビニとかで売ってる。あれ、最初に作ったの、俺やねん」
え、どういうことですか。
「まぁ正確には、俺が勤めてたパン工場の女の子のアイデアやねんけど」
まず、鵜川さんという人がどういう人か、これについては以前の記事で何度か触れたことがある。たとえば、この記事。
https://note.com/nakamuraclinic/n/nfda6451c3467
高校時代、ラグビーで全国大会に出場し、将来を期待されたが故障で夢を断たれた。大学生の頃、闇の世界に出入りするようになった。しかし、ある事件に遭遇したことから、その世界と縁を切ることに決心した。が、「やめます」と言って、「オッケー、じゃ元気でね」と心温かく送り出してくれる世界ではない。多額の借金を背負わされて、身ぐるみはがされるようにして、放り出された。その行き着いた果てが、愛知県某市にあるパン工場だった。
今では企業が障害者を雇用するのは珍しくないけれど、そのパン工場は当時から地元の数多くの障害者を雇用していた。事務方は普通のおじさんおばさんが働いていたが、工場の製造ラインは特殊学級出身の知的障害者がほとんどだった。
住み込みの家があって、家賃がかからないありがたさで、鵜川さんはそこに住むことにしたが、同居人がひどかった。酒で仕事も家庭も失ったアルコール依存症のおっさん、唯一の自慢が「NHKののど自慢大会に出たこと」の身寄りのない老人、知的障害のある20代の小池くん。
「この世の底辺まで来てしまった」と鵜川さんは嘆いた。バブル景気に沸くきらびやかな都会で、毎月何億円もの収入が流れ込む仕事をしていた鵜川さんとしては、到底受け入れがたい現実だった。
「こんなところにいては自分がダメになってしまう」と思って、鵜川さんは仕事を複数掛け持ちして、「金がたまったらすぐに出て行ったる」との思いで、日々を過ごしていた。
社員への福利厚生の一環か、昼にパンが1個手渡されたが、鵜川さんはどんなにおなかがすいていても、そのパンを食べようともしなかった。「障害がうつる」ぐらいに思っていた。
体力に任せて仕事を3つ掛け持ちしていた鵜川さんだったが、過労がたたって、ついにダウンしてしまった。そのときに、一番鵜川さんのことを心配したのが同居の小池くんだった。寝込んで動けない鵜川さんのために、食事を持って来たり、「働きすぎちゃダメだよ」と言葉をかけたり。何の私利私欲もない。ただ、病める者への気遣いと優しさ。長らく、こんな純粋な思いに触れてこなかった気がする。
鵜川さんの仕事は、パンをトラックで運ぶことだった。病気から回復して、職場復帰をしたある日、いつものように、事務方のおばちゃんからその日の配送ルートを教えてもらっていると、おばちゃんからパンを渡された。
「これ、あなたいつも食べないけどね、タダじゃないんだよ。小池くんが買ってるんだよ。あなたに、って」
殴られたような衝撃だった。なけなしの給料のなかから、わざわざ俺のために買っていたなんて。
その日、トラックを運転しながら、初めてパンを口にした。うまかった。ものすごくうまかった。
その日から鵜川さんの心の中で、何かが大きく変わった。
事務方のおばちゃん連中はもちろん、障害を持ちながら働く社員とも積極的に話すようになった。同居ののど自慢老人がいつも歌っているのをうっとうしく思っていたが、話しかけた。「のど自慢に出たっていうけど、鐘は鳴ったんか?」「うん、2個な」「2個だけかい!」とツッコんだりした(笑)
鵜川さんが音頭を取って、社員たちをマッサージに連れて行ったことがある。小池くんが「あー、気持ちいい」とくつろいでいるのが、鵜川さんにはうれしかった。このときの喜びが、後にタイ王室マッサージ『バーン・ハナ』を立ち上げることにつながっていく。
1980年代、好景気の日本で、海外旅行の定番といえば、ハワイだった。鵜川さんも「社員たちとみんなでハワイに行きたい」と考えた。旅費、宿泊費、その他諸々、計算すると総額200万円はかかる。事務方にかけあうと、「それだけの売上が上がれば、考えてもいいね」
そこで鵜川さんは、真剣に考えた。一体、うちの会社の売れ筋商品は何なのか。よく売れてる商品を、積極的に売り込めばいい。逆に、不採算というか、返品の多い商品は生産を減らしていこう。
こういう事情に一番通じているのは、パンの出荷先の中学校や高校で販売を担当しているおばちゃんである。鵜川さんは直接おばちゃんたちに聞き込みに行った。「そうだね、よく売れるのは蒸しパンかな。あと、チーズパンもよく出てる」そんな声が多かった。
この声をもとに、事務方と相談した。「蒸しパンとチーズパンをもっと売り込みたい。逆に、不人気なパンはもっと数を絞っていいと思う」
そんな話を横で聞いていた、知的障害のある女の子が、「じゃ、蒸しパンとチーズパン、あわせてチーズ蒸しパンっていうのを作ったらどう?」
事務方さんと鵜川さんは笑った。「チーズ蒸しパン?何やそれ」
しかしちょっと考えてみて、「蒸しパンみたいにふかふかで、チーズのうまみがある。案外いけるんちゃうか」
試作品を作ってみることにした。チーズの量、あるいは、工程のなかでチーズを入れるタイミング、条件を変えながらいくつかの試作品を作り、評価は事務方のおばちゃん連中にお願いした。それで、大方みんながおいしいと思うものを、実際に販売した。
結果、売れに売れた。最初に火がついたのは、学校販売の中学生、高校生たちだった。生徒たちは我先にと買っていき、すぐに売り切れた。増産すれば、その分だけ売れた。評判が評判を呼び、近所のパン屋から注文の電話やFAXが殺到した。
短期間でその売り上げは3千万円に達し、鵜川さんは社員のみんなとハワイ旅行を楽しむことができた。
鵜川さん「その後しばらくして、ヤマザキからチーズ蒸しパンが売りだされてるのを見て、笑ったよ。あいつらパクリよったなって」
もったいないなぁ。特許でも取ってたらよかったのに。
「いや、そんな発想ないし、俺のアイデアというか、女の子のアイデアやからね。
あれができたのは奇跡だと思うよ。今のパンって、買っていつまで経ってもふわふわやんか。いろんな添加物入れてて。でも昔のパンってすぐに固くなった。学校給食のパンでも、翌日にはカチコチでしょ。だからパンはできたてがうまい。これは今でもそうだと思う。
チーズ蒸しパンって、チーズが入ってるから、普通のパン以上に固くなると思うでしょ。でも、チーズの量とかタイミングで、うちの作ってたチーズ蒸しパンは時間が経っても固くならなかった。添加物なんて使ってないのにだよ。あれができたのは本当、奇跡だと思う」
どうしてくれるんですか、鵜川さん。僕は普段パンを食べないけど、チーズ蒸しパン、食べたくなったじゃないですか(笑)