時間感覚

20歳の人はすでに人生の50%を終えている」という説があります。
どういうことか。
時間感覚の話です。
みなさん、子供のときのことを覚えていますか。
1日がとても長かったはずです。
1週間は長いし、1か月は永遠のようだった。
1年なんて、はるか遠い未来のようで本当にそんな日が来るとは信じられなかったほどだ。
しかし、成人になり、中年になり、初老になり、と人生を長く生きるにつれ、時間の流れが加速する。多くの人がそう実感します。
子供の頃、教師が「20歳過ぎたら人生なんて一瞬やで」と言っていました。当時の僕は「ふーん」と思うだけで、言っている意味がよく分からなかったのだけど、今ならこの言葉の意味が分かります。10年後には、今以上にもっとよく分かると思います。

たとえば5歳児にとって、1年は人生の5分の1にあたりますが、50歳の人にとって、1年は50分の1に過ぎません。
つまり、人の時間感覚は、その人の年齢の逆数になります(ジャネーの法則)。

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横軸に年齢をとり、縦軸に時間感覚をとる。すると、反比例のグラフが現れる。この下の領域を積分すれば、それがその人の人生の総量ということになる。

冒頭の「20歳の人はすでに人生の50%を終えている」ということは、このグラフで言えば、0歳から20歳までの面積が、全体の50%を占めているということです。
この説には説得力を感じる。時間感覚は確かに、世代によって均一ではない。

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もっと言えば、「個体発生は系統発生を繰り返す」という言葉があるけど、おなかの中にいる赤ちゃんは、妊娠中の10か月ほどの間に、生物進化の40億年を復習してからこの世に生まれてくる。10か月を40億年と感じるのが胎児の時間感覚なんだ。生後の赤ちゃんにとって、1日は気が遠くなるほど長いだろう。

なぜなのか。
なぜ、子供のときの1日は長く、大人になると1日が短く感じられるのか。
「年齢が上がるにつれて経験が固定化され、新奇性が減ることで、脳は時間を短く錯覚しやすくなるから」というのが、認知心理学による解釈である。
つまり、「初体験」が多いほど、時間は濃密に感じられ、逆に、ルーチン化すれば時間が早く過ぎるように感じるということだ。
また、「記憶に残る出来事が少ないほど、過去を振り返ったときに時間が飛んだように感じる」という心理もある。

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遊び疲れて寝たこうちゃん

今、3歳のこうちゃんは、「見るものすべてが新しい」世界を生きている。
たとえば、「読んで!」といって絵本を持ってくる。読んであげると「もっかい!」という。もう1回読んであげると、また「もっかい!」
内心、疲れてしまう。「なんべんも同じ話をみて飽きひんの?」と思う。
でも、こうちゃんはあきないんだ。同じ話のすじで、「ここにオチがくる」と分かっていても、それでも、楽しい。
たとえば、こうちゃんと手をつないで歩く。道を歩きながら、こうちゃんは目にするものすべてに反応する。地面をはうアリ。空をとぶチョウチョ。あちこちの看板。こうちゃんにとって、すべてが新しい。世界は、未知なる興奮で満ちている。
逆に、僕の歩く様子はロボットのようだ。歩くことは、A地点からB地点までの移動にすぎず、その際に目にする街の風景は、僕の脳にとって単なるノイズで、何らの印象も残さない。
同じ世界を生きていながら、こうちゃんは僕とまったく違う時間を生きている。
そして、毎日着々と成長している。
昨日できなかったことが今日できるようになり、明日にはもっと上手にできる。
その変化を「急成長」だと僕が感じるのは、こうちゃんが僕とは違った時間の中で生きているからだろう。こうちゃんは、圧倒されそうなほど膨大な時間のなかで、いろいろ考えたり感じたり試行錯誤して、それで、ちょっとずつ成長しているつもりだろう。
でもそれは、僕から見れば、「この子は天才だ!」と言いたくなるほどの急成長で、だからこの世の親は全員親バカになるんだと思う(笑)

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ロンを見ていても、時間の何たるかを思います。
俗説で「犬の1年は人間の7年に相当する」というのがあるけど、だとすると5歳のロンは35歳ということになるけど、ゴールデンレトリバーの平均寿命は10年ぐらいだから、すでに半分、もう人生の折り返し地点を過ぎた。そして、人間の7倍速で年をとっていく。すでに顔は白くなってて、昔みたいにわちゃわちゃしなくなってきた。ボールにもあまり関心を示さない。今後、ますますおとなしくなっていくだろう。そういうことを思って、僕は最近、ロンとの時間を惜しむように、ちゃんと幸せを感じるように、過ごしています。

なぜこんなことを考えるのかというと、きのうが僕の誕生日だったからです。別に誕生日だからといって何もテンションは上がらない。ただ、時間の流れを意識する。「今日からプロフィール書くときは45歳と書かなくちゃ」と、記憶を更新する区切り目に過ぎない。
ただ、この年齢は僕にとって、多少特別な意味があります。
僕は人生の一時期、本の虫でした。ずっと小説を読んでいました。特に好きだったのは三島由紀夫で、彼が自衛隊の市谷駐屯地で割腹自殺したのが45歳でした。野球少年がプロ野球選手に憧れるように、本好きの僕は何となく作家に憧れを持っていて、でも三島みたいな才能はなくて、小説なんて書けない。何となく憧れる、程度では作家にはなれないんですね。それでも、人生の折々に、三島由紀夫の人生の系譜を重ねて、自分のふがいなさにため息をついたりする。24歳。「三島はこの年齢で『仮面の告白』を書いたんだよなぁ」。31歳。「この若さで『金閣寺』を書くなんて」そして、45歳。今の僕の年齢で、三島は自ら命を絶った。
それで、僕の中にも「45歳になるまでに、何かひとつ、形になるものを成し遂げたい」というのが漠然とありました。
コロナ禍において、僕の情報発信は一部界隈で熱烈に読まれ、一定の支持を得ました。僕は作家にはなれなかったけれど、僕がまったく想定していなかった形で、「読者」を獲得することになりました。
まさかこんな形で、過去の読書経験とか、文章のスキルが生きると思わなかった。何がどう転ぶか、まったく予想がつかないのが人生ですね。

冒頭に言ったように、時間感覚としては、20歳を超えた人はすべて、人生の半分を経過している。45歳の僕に与えられた時間は、だから、すでに半分も残っていない。
今後の人生で、いったい何ができるだろうか。
どれだけ多くの人に、好ましい影響を与えて、この世界を少しでも住みよい場所にできるかどうか。医者として、もっといい仕事がしたい。病気で苦しむ人に対して、少しでもいい方向に導いて、この世の病苦を減らすことに貢献したい。
そう、僕に残された時間は、あと半分もない。そこから来るあせりこそ、人間を本気にさせる原動力です。
テスト前になってようやく重い腰をあげて試験勉強を始める心理と同じですね(笑)

>中村篤史について

中村篤史について

たいていの病気は、「不足」か「過剰」によって起こります。 前者は栄養、運動、日光、愛情などの不足であり、後者は重金属、食品添加物、農薬、精製糖質、精白穀物などの過剰であることが多いです。 病気の症状に対して、薬を使えば一時的に改善するかもしれませんが、それは本当の意味での治癒ではありません。薬を飲み続けているうちにまた別の症状に悩まされることもあります。 頭痛に鎮痛薬、不眠に睡眠薬、統合失調症に抗精神病薬…どの薬もその場しのぎに過ぎません。 投薬一辺倒の医学に失望しているときに、栄養療法に出会いました。 根本的な治療を求める人の助けになれれば、と思います。 勤務医を経て2018年4月に神戸市中央区にて、内科・心療内科・精神科・オーソモレキュラー療法を行う「ナカムラクリニック」を開業。

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