
『インファナル・アフェア』
この映画は、ジャンル的には警察とヤクザの抗争を描いたドンパチ映画ということになるだろうけど、そんな分類はナンセンスなくらい、明らかに人間ドラマに焦点があります。
警察がヤクザ組織にスパイを送り込む。こういう潜入捜査は日本では禁止されているが、香港では実際に行われています。
この映画の新味は、その逆を発想したことにある。ヤクザ組織からも警察にスパイを送り込んだ。この組み合わせが絶妙の対比を生んでいる。
1990年代、警察とヤクザの抗争は熾烈を極め、双方に複数人の死者が出ることも珍しくなかった。警察は何としてもヤクザの麻薬取引の情報をつかみたい。一方のヤクザの方でも、警察の捜査動向を把握したかった。
ウォン警視は警察学校で優秀な成績を収めていた青年ヤンを、突然退学にした。
「君はこの学校でトップクラスの成績を収めた。おまけに正義感も強い。立派な警察官になるだろう。しかし優秀な君に特別な任務を与えたい。君に退校を命じる。君は警察になれず、挫折した。そういうことにしてほしい。そして、マフィア組織に潜入してほしい。潜入捜査官としてマフィア組織の内情をこちらに流す、それが君の任務だ」
拒否する選択肢はない。しかし、拒否するつもりもなかった。任務の重さにヤンは胸が震えるのを感じたが、同時にそれは大きな喜びでもあった。
一方、スラム街で育ったラウ少年は、幼い頃から素行が悪く、長じてマフィアに入るのは自然な成り行きでもあった。サム組長はラウが極めて優秀であることに気づいた。実務能力、腕っぷしの強さ、組織への忠誠心。どれをとっても文句なしに優秀な彼を、警察学校に送り込むことにした。「潜入マフィア」として働かせるためである。
ウォン警視、サム組長、両者の目論見は当たった。10年後、ヤンはマフィアの中で成り上がり、幹部として多くの組員の信用を勝ち得た。ラウは警察の中で出世し、捜査情報を流しながらも、周囲からの人望は厚く、愛する婚約者をも得た。
ある日、警察はヤンから大きな麻薬取引の情報を受け取った。警察は密かに厳重な包囲網を敷いたが、そうした動きはラウによってマフィア側に筒抜けである。検挙も取引も失敗に終わったことで、ウォン警視、サム組長のいずれもがスパイの存在に気づくことになった。
サム組長「考えたくないことだが、組の中に警察の内通者がいる。そうとしか考えられない。ヤン、そいつを炙り出せ。俺はお前のことを一番信用している」
ウォン警視「恐らく対策課の中にマフィア側に情報を漏らしてる人物がいる。ラウ、それが誰なのか、探し出してくれないか」
ズバリ、それぞれのスパイが、スパイの炙り出しを命じられることになった。
筋として出来すぎている。でもそれでいい。映画であり、フィクションの世界なのだから。
それでも、僕はこの映画がすごくおもしろかった。ヤンの苦しみ、ラウの苦しみに、「これは辛いな」と共感しっぱなしだった。
たいていのドラマは、印籠を持った水戸黄門が正義で、私腹を肥やす悪代官が敵という具合だ。僕らは子供の頃からこの勧善懲悪スタイルになじんでいるものだから、この手のドラマは見ていて安心感があるし、何も考えずに済む。要するに、つまらないということなんだけど、それで全然かまわないんですね。水戸黄門を好んでみる視聴者層は、誰も変化球なんて望んでないのだから。
でも現実世界というのは、全然そうじゃないんですね。白に見えるものを黒という人もいるし、灰色だと主張する人もいる。この矛盾を許容することが、「大人になる」ということかもしれません。
ヤンは、マフィアというのは悪の巣窟だと思っていた。しかしマフィアの中で生きるうちに、マフィアには彼らなりの美学があり秩序があることを知った。若い衆を束ねるようになり、サム組長への仁義を尽くすうちに、マフィア情報を警察に流すことが、自分でも許し難い裏切りのように思えてきた。
ラウは、警察官として社会悪の根絶に向けて粉骨砕身働くうちに、真面目な一般人を食い物にするヤクザ稼業がいかに不誠実なものか、実感し始める。行き場のない自分を拾い上げ、育ててくれたサム組長は自分にとって親のようなもので、彼への感謝はある。しかしまた、警察官の視点で見れば、彼は巨大な悪の中枢そのもので、真っ先に討つべき悪党ということになる。葛藤の中で、ラウの心は引き裂かれる。
初めてこの映画を見たのは20年以上前だけど、最近また見る機会があって、最初に見たときとはまた別の感想を持ちました。
この映画には、男の性質がよく出ています。それは、男は常に大義を探しているということです。「それのためなら命を失ってもかまわない」そう信じられるほどの強い大義を。
インファナル・アフェアというのは、仏教用語で「無間地獄」の英語訳だという。スパイとして、両方の組織の気持ちが分かってしまうことは、確かに地獄に違いない。

昔、関口宏が司会を務める動物番組がありました。
ガゼルが主題の回には、ライオンは恐ろしい捕食者として描かれていて、可愛らしいガゼルがライオンに食い殺されて、僕らは哀れみの涙を流します。一方、ライオンの回には、何日も獲物にありつけず、2匹の子供ライオンを養うこともできない母ライオンの苦しみが描かれていて、そんなときに、母ライオンがようやくガゼルを仕留めたときには、僕ら視聴者は「よかったなぁ」と感動の涙を流したものです。
涙って、ものの見方の相対性、という概念と対極にあるものですね。
僕は、今、医者として、人の命と健康を守ることが仕事です。
でも仮に、今回のコロナ騒動を仕掛けた人々のパーティーに招待されて、こんなふうに説得されたらどうでしょうか。
「人間が地球の癌ということが、なぜ君にはわからないのかね。産業革命以後、人類の爆発的増加の歴史は、そのまま自然環境の破壊の歴史でもあった。森が伐採されて野生動物は棲家を失い、海には汚染物質を垂れ流し放題。果ては、宇宙にまでゴミを捨て始めた。
生物界を見るがいい。ある生物種が過剰に繁殖すれば、きちんとそれを抑制する仕組みがある。あるいは、レミングの集団自殺に見られるように、個体の選別が自浄的に行われている。しかし君ら人間はどうだ。どこまで行っても繁殖、繁殖、繁殖。本能の狂った君たちは、自分で自分を律することさえできないんだ。明らかに、誰かが管理してやる必要がある。地球は、君ら人間のためだけのものではない。森の野生動物や海の生物たちの声を、代弁してやる存在が必要なんだ。
添加物や農薬、医薬品など、マイルドな毒で以て、君たちの生殖能力を徐々に奪う。あるいは、ワクチンによって、君たちをゆっくり殺す。実に慈悲深い間引き方だと思うのだが、何かご不満かね?」
宮崎駿の『風の谷のナウシカ』は、映画版は安っぽいハッピーエンドで終わるけど、マンガ版のほうはもっと複雑で、こちらのほうに作者の本音が出ている。結局のところ、ナウシカは人間を許せない。もちろん、ナウシカも人間だから、風の谷の人たちを含め人間のことが好きだけれども、それでも、汚染物質を垂れ流し自然を破壊する人間は、やはり滅ぶべきだと思っていて、人間のいない世界を本気で望んでいる。
僕の中にも、命を肯定する絶対的な論理があるわけではありません。だから、「人間存在がいかに自然にとって害悪か」とか「人間の繁殖をもっとコントロールする必要がある」とかロジカルに説得されると、抵抗できないかもしれない。というか、その説得に魅了されて、「確信犯」的に西洋医学礼賛やワクチン推進に舵を切るかもしれない。それが人々の健康増進に寄与するどころか、人口削減の一環なのだと十分に認識しながら。
何が正しいのか、僕にも答えはありません。
悩み続けるという、そういう形でしか、僕は生きられないと思う。
無間地獄を生きるのは、ヤンとラウだけではないんだ。